Home / ファンタジー / 黒き魔人のサルバシオン / 序章 第一話「何ものにも代えがたい日常」

Share

序章 第一話「何ものにも代えがたい日常」

Author: 鈴谷凌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-04-02 18:28:36

「……あれから八年か……」

 幾度となく繰り返し読んだ単行本を両手に持つエルキュールの眼が滑る。

 なにも質素な自室の窓から朝の到来を告げる、小鳥のさえずりのせいだけではないだろう。

 それは追憶だった。

 エルキュールにとっての原初の記憶、忌み嫌うべき記憶のせいだった。

 本を両手でぱたりと閉じると、エルキュールはやや上を見上げてゆっくりと目を閉じた。

 中断させられた読書を再開する気もなく、ただそうして、エルキュールはいつものように心を落ち着けた。

「――というか、そろそろ出る時間だったな」

 ゆっくりと目を開けて思い出す。

 窓から見上げれば小鳥の便りにするこもなく、遠くの空が白んでいるのが分かる。

 さらに外から入り込むほのかに吹く風が、春の陽気を微かに感じさせる。

「アザレアの花も、今朝は良く咲いているようだ」

 窓辺に飾った黒い花弁、かつてエルキュールの故郷に多く生息していたそれは、今日に限っては彼の心を妙に撫でる。

 エルキュールはそれを指でちょんと突っつき軽く水をやると、身支度を整えようと部屋の奥にある姿見の前に立った。

 エルキュールにとってはもはや見慣れた自分の姿が鏡面に映しだされる。

 作り物と見紛うほどの端正な顔立ち。窓からの光に照らされた明るいアッシュグレーの髪。吸い込まれそうなほどの美麗な輝きを備えた琥珀色の瞳。

 そのすべてから、どことなく人間離れした雰囲気を醸し出していた。

 だが、そこから下に目線を移動させれば、先の人間離れした雰囲気云々という言葉は、単なる比喩表現にとどまらないものへと変わる。

 その首元には、人間にはまずあり得ない、黒く発光する痣が服の外へ顔を覗かせており、見る者に気味の悪い印象を与える。

 さらに、目線をより下に向けた先にある胸元においては、薄手の服の生地の上からでも分かるくらいに、怪しげな黒色の光が明滅していた。

 首元の痣も胸の明滅もイブリス――人類が魔物と忌み嫌う生命に特有のもの。

 人の世界で、人の街で、人の社会で、人としての生を演じるエルキュールは、その実人間ではなかった。

 人間や動物などの有機生命体・リーベとかけ離れた痣やコアは、完全な物質化に至っていない魔素――魔素質で形成されている。

 そしてその存在は、エルキュールの非人間性を証明すると同時に、両者を決定的に異にするものでもあった。

 エルキュールは人型のイブリス、魔人としての在り方を否定し、その力を押さえつけることで、これまでその正体を露呈させることなく家族と共に生活してきたのだが。

 あらゆる物体を構成する要素である魔素質、その可塑性を以てしても、これ以上は人の姿を模すことは難しく、胸の中心にあるコアに至ってはそのままの状態で残すほかなかったのだ。

「このまま外に出ていたらまずかったな……」

 魔素質の自然発光は注力すれば抑えることができるが、夜通し本を読んでいるうちに、抑えている痣やコアの発光が元に戻ってしまっていたらしい。

 小さく息を吐き、意識を集中させる。すると、怪しげな光はたちまち収まっていった。それに伴って倦怠感と脱力感が全身に襲いかかるが、それに抗うように身体に力を込めて姿勢を保つ。

「はぁ……」

 首元の痣も目立たなくなり、傍から見れば人間にしか見えない姿に戻ったにも関わらず、エルキュールの表情は憂鬱に満ちていた。

 些細なことにまで気を張らないとまともに生活を送れない、厄介な自分の身体に辟易したためか。

 自らの在り方を捻じ曲げざるを得ない現状に対する不満か。それともそこまで己を封じることへの疑問だろうか。

 エルキュールの顔色にはきっとその全ての意味が内包されているのだろうが、その感情と思考の果てに彼が明確な答えを見つけたことはなかった。

 ヴェルトモンド大陸にあるリーベが建国した人類の国の一つ、オルレーヌ王国。

 王都ミクシリアから幾らか離れた、国の北部に位置する街、ヌール。

 家族と共に住むこの地のみが魔人であるエルキュール・ラングレーの唯一の居場所であり、それ以外の生き方を彼は知らなかった。

 だからと言ってリーベの国であるオルレーヌに、魔人であるエルキュールが平然と暮らしていることが周囲に知れたらどんな仕打ちを食らうか。

 過去の忌まわしい経験から察するに、それはエルキュールにとってこの上なく悲しいものになるだろう。

 故にエルキュールは自分の正体を隠し、立場を偽り、極力目立たない生活を心がけてきたのだ。

「それに、この生活はなにも今に始まったことではない」

 十年ほど前――物心がついたときから、エルキュールはリーベの世界にいた。そんな彼の傍には親愛を向けてくれる母と妹がいてくれた。

 それはエルキュールにとっては変わることのない事実。

 なればこそ、多少住みづらくてもここがエルキュールの住むべき世界なのだ。

「うん、しっかりしないと。俺を気にかけてくれる人たちのためにも」

 もはや何百と繰り返した自問に無理やり終止符を打ち、身支度の続きへ戻る。

 姿見のすぐ横にある棚を開け、首まで隠れるほどの厚手の服に袖を通す。手には愛用の黒い手袋をはめ、何度か拳を握って感覚を馴染ませる。

 肌はできるだけ隠しておくに越したことはない。押さえつけている力が抜けて痣が表出しては目も当てられないからだ。

 最後にエルキュールは黒色の外套を羽織り、最後にもう一度だけ容姿に異常がないことを確認すると、部屋にある魔動時計に目をやった。

 針は六時を指し示していた。

「――出かける前に彼女たちも起こしてやらないといけないな」

 エルキュールにとっては、彼が未だにこの世界に属する唯一の理由にもなっている者たちの姿を思い浮かべ、彼は静かに階下へと向かった。

 エルキュールとその家族が住む木造住宅は、平均的な王国民の住居に比べてもややこじんまりとしている。

 二階にはエルキュールが住むだけの空間と、一階には家族二人の部屋とちょっとした居間があるのみ。

 早朝のためエルキュールが気を遣って静かに下りても、数秒ほどですぐに居間へとにたどり着いた。

 魔人であるエルキュールの視界は人と比べてかなり優秀で、暗がりの中であっても普段彼らが使う木製の長テーブルと椅子の輪郭がはっきりと見てとれた。

 しかしエルキュールはよくとも、他の者にとってはそうもいくまい。

 まずは明かりをつけようと、エルキュールは部屋の天井に備え付けられた変哲もない照明を見上げると、そっと手をかざした。

 それから意識を集中し、周囲の外気に含まれている光の魔素を感じとる。

「――ライト」

 エルキュールが短く詠唱すると、その照明に明かりが灯った。

 光を灯すことができる、光属性の初級魔法。

 魔素を感じて使役する魔法は、決して誰しもが使える力ではないが、これに関してだけはその例からも外れると言っていいほど、一般的で汎用性が高い魔法だといえるだろう。

 ヴェルトモンドで生きていくならば、この程度の魔法は扱えないと苦労するからと、昔から一般の学校に通う子供ですら学ぶのが通例になっているそうだが。

 近頃の上流階級の家では魔法技術の発達により、魔動機械の照明が備え付けられるようになっており、手動で魔法を使わなくともスイッチ一つで明かりを灯せることができるらしい。

 確かそのことで「若者の魔法離れ」とか「行き過ぎた魔動機械化は怠惰のもと」が引き起こされるとか、エルキュールはどこかの評論家の著書を読んだことがあった。

「……でもそんなに便利なら、日ごろの感謝のしるしに買ってみるのもいいかもしれないな」

 質素な家の様子にそんなことを口にしながらも、室内に明かりが灯ったのを確認したエルキュールは、母と妹の部屋の方へ歩いていく。

 部屋の扉を前にし、エルキュールは念のため扉をノックした。

 不慮の事故があったら困るというのもあるが、やはり未だ彼の心のどこかでは二人に遠慮をしているきらいもあるのかもしれない。

 エルキュールがつまらない感傷に浸っていると、扉の向こうから声が返ってくる。

「……エル?」

 その声は細く優しさを湛えたもので、聞く者の気持ちを落ち着かせるような声質だった。

 いつもの寝ぼけた声とは一切異なる明瞭さを思うと、どうやらエルキュールがここに来る前にすでに目を覚ましていたようだった。

「おはよう、母さん。ごめん、少しうるさかったか?」

 声の主はエルキュールの母親・リゼットだった。同時に扉の向こうから足音が聞こえ、近づいてくる気配がした。

「おはよう。いいのよ、別に。いつも悪いわね、起こしてもらっちゃって」

 リゼットは挨拶を返しながら扉を開けてそう答えた。その静かな振る舞いから、妹のほうはまだ寝ているのだと察せられる。

「それこそ気にしなくていい。母さんたち――もとい人の多くが朝に弱いのは、もう嫌というほど知っているから」

 エルキュールのばっさりとした物言いに、リゼットは「あらー、そうなの」ときまりが悪いのを紛らわすようにおどけて返しす。

「……じゃあ、俺は出かけてくる」

「いつものところね? 気を付けるのよ」

 リゼットは快くエルキュールを送り出すが、直後に何か思いついたのか、「あ、そうだ」と彼を引き留めた。

 後ろから手を引かれたことに、エルキュールはくすぐったいような心地と若干の緊張感を覚えつつも、律儀にリゼットの方へ向き直る。

「どうかしたか?」

「――せっかくだから今日は一緒に朝食にしないかしら? ヌールに来てからあまり機会もなかったことだし、たまにはいいんじゃないかと思うんだけど」

「ああ、そう言えば……そうだったか……」

 共に朝食を食べよう。何気ないように思われるその提案に、エルキュールは煮え切らない態度を示した。

 自室で考えたことが心に浮かんだのもそうだが、やはりエルキュールと彼女との隔たりが彼を躊躇させてしまう。

 言うまでもなくリゼットたちはリーベに分類される人間だ。当たり前のように呼吸や食事、睡眠を行い、社会生活を行う。

 そしてそんな当たり前のことが、魔人であるエルキュールにとっては大きく違っているのだ。

 リゼットに拾われ、三人で過ごすようになって十年になるが、家族と過ごすことはエルキュールにとって嬉しくもあるものの、時に苦悩の原因にもなっていた。

 彼我の間に存在する決定的な違いを自覚させられるからだ。

 どれだけ足掻こうが、その差を埋めることは叶わない。

 そもそもの種が異なるためだ。

 リーベとイブリス、どれだけ姿を似せようとも、その在り方は全く別である。

 ヌールに移り住むようになって、家族以外の人間の姿を目にするようになって、エルキュールの内にある自意識は変化していった。

 もちろん、リーベにとって魔獣や魔人といった魔物は、忌み嫌い排除するべき敵という、ヴェルトモンドでは当たり前のように流布している価値観もある。

 本来ならば、エルキュールはこの場にいるべき存在ではなかった。

 かといって、他に行き場所もなければ、そこまでの強い動機もないというのが、彼を悩ませる一番の要因であるのだが。

「……エル、また悩んでいるのね? あの時の事を思えば気にするのも無理はないけど。……でもね、あなたが私たちと一緒にいてくれて、本当によかったと思ってるのよ。十年前から今まで、その気持ちが揺らいだことなんて一度もない。あなたは魔人であるけれど、それ以前に私たちは家族だもの」

 全てを見透かしたようなリゼットの言葉に、エルキュールはその琥珀の瞳を大きく見開く。

「それにね、あなたがずーっとそんな調子だから『兄さんが最近私に構ってくれないの!』って、アヤがうるさいのよ」

 リゼットがいたずらっぽくそう言うと、エルキュールの顔にも微笑が浮かんだ。本当に彼女の気遣いにはいつも頭が上がらない。

 昔から、彼女はずっとそうだった。

 彼女だけでなく妹のアヤも、エルキュールをずっと慕ってくれていた。

 自らが不利を被ると知っていながら受け入れてくれていたし、あの時も身を挺して庇ってくれた。

 かけがえのない存在だ。

 エルキュールは迷いを振り払うように息を吐くと――

「……分かった。用事を片付けたら帰ってくるよ」

 そう短く答え、むず痒い気持ちを隠すように足早に玄関へと向かった。

 その顔はそれまでに比べると幾分晴れやかな表情で。

「いってらっしゃい」というリゼットの声を背にして。

 その日の始まりはいつもより明るいものであった。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第十八話「王都入り 前編」

     光の魔術師、ジェナ・パレットとの邂逅。アマルティアの魔人ミルドレッドが引き起こしたとされる魔獣の一件。そしてそれに巻き込まれる形となった、カイル・クラークの失踪事件から四日が経過したその日、アルトニーの詰所に一本の魔動通信が入ってきた。 差出人はロベール・オスマン。このオルレーヌ全国に配置された騎士各員の頂点に立つ選りすぐりの猛者その人である。齢五十に差し掛かろうとは思えない精悍な顔つきと鍛え抜かれた岩のような肉体。毅然とした態度で部下を指揮するその姿に部下からの信頼は厚く、密かに熱狂的なファンもついているという噂だ。 だが、傑物とすら謳われるその御仁からの直々の連絡、その内容というのは誰もが思いもしないものであった。『エルキュール・ラングレーという青年と話がしたい』 取次ぎに来たカーティス隊長からそんな伝言を受けたとき、月並みな表現にはなるがエルキュールは心底驚いていた。 王都に向かおうと準備を進めていた只中の連絡であるのもそうだが、そんな時宜に適った偶然性だけではない。 片や全国の騎士を束ねる大人物。片や人の目を避けながら生活する、表向きは単なる平凡な青年。 圧倒的な立場の違い。その中にいる両者に接点が生じるなど微塵にも考えていなかったというのが主たる理由だった。 しかもこの通信は公的な理由ではなく、あくまでもロベールの個人的な用件のために行われたのだという。 焦らずにはいられなかった。 ただでさえ最近は魔人である身でありながら、堂々と動きすぎたと反省していたところだったのだ。 その正体が明るみになってしまったのではないかと思うと、気が気ではなかった。 通信機を持つエルキュールの手は震え、体内の魔素が嫌に活発になっているのを感じていた。 だがそれを表に出すほどエルキュールも柔ではない。大事なのは平静を装うこと。十年に及ぶ生活で培った図太さを十全に発揮して、ロベールとの通話に臨んだ。「……はい、エルキュールですが」「ああ。お初にお目にかかる、オルレーヌ騎士団団長のロベール・オスマンだ……済まないね、突然無理を言ってしまって。しかし、どうしても君に話しておかなければならないことがあってな」 低く、微かに濁りが混じった声色。しかし、決して老いぼれているという印象はなく、どちらかと言えばくすんだ銀のような渋く、味わい深いものであると感

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 挿話①~アヤ~「遺されたもの」

     彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐ

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第十七話「閑静な夜会」

     カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。 最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。 会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。 何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。 まるで意識に靄がかかってしまったかのような酩酊感の中。時間が過ぎゆく感覚すらも忘れ、気付けばエルキュールは暗くなった室内でベッドに寝転がっていた。 隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。 それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。 光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。 アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。 疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。 欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。「……あ」 そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。 もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第十六話「善悪の境」

     会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。ある

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第十五話「交わるとき」

     アルトニーの森を脱したエルキュールとジェナが騎士団詰所に帰還したのは、もうすっかり陽が落ちてしまった頃であった。 詰所に先に逃げ延びていたグレンとカイル、未だ帰ってこないジェナたちを心配するクラーク一家は、二人の無事に大いに喜んだ。 クラーク夫妻は腰を痛めるのではないかと心配するほどエルキュールらに頭を下げていたし、ずっと不安と緊張を抱えていただろうサラは大声で泣きだす始末。事件の渦中にいたカイルは自分のした行いを猛省し、そんな妹に申し訳なさそうに何度も謝っていた。 それぞれが思い思いに感情を爆発させる様に、エルキュールはもちろんのことジェナやグレンも若干押され気味だった。 それに追い打ちをかけるが如く、遠くから騒ぎを駆け付けた騎士連中までもがその人の渦の中になだれ込んできた。 一兵卒の過失によるこの事件に責任を感じていたアルトニー騎士たち。もちろん全員ではないがカーティス隊長を筆頭に数人が集い、事件解決に動いてくれたエルキュール、グレン、ジェナの三名に丁寧な陳謝と賞賛を送った。 ここまで事が大きくなるとは思っていなかったエルキュールは、正直いって多くの人間に囲まれるというこの状況から逃げ出したくあったのだが。 彼の弱気に目聡く気付いたジェナとグレンによってそれも阻まれ、むしろかえって二人からの揶揄いを受けることになったのだった。 詰所内はまるで祭りでも催されているのかという程の賑わいを見せていたのだが、やはり勢いというのは時が立てば落ち着くもので、次第にそのほとぼりも冷めていった。 先ほどエルキュールらにお礼を述べてきた騎士などは、この時間になってもなお仕事に追われているらしく、早々とそれぞれ持ち場に戻っていった。 この街が抱えている問題は依然としてあることを再認識させられるが、とにかくこれからの展望について語るのなら、今が絶好の機会だろう。 疲弊した精神を癒すべく、集団から離れていたところで暫しの休憩していたエルキュールは、場の空気が落ち着いていくのを感じながら決意した。 王都へ至る道にグレンのほかにジェナが加わった。まずはそのことを知らせようと赤髪の彼を探す。 こういう時、背の高さは素晴らしいものだなと思う。部屋の隅の方でカーティス隊長と話しているグレンの姿を容易に確認できた。「そういえば、グレンの家はあのブラッドフォードだったな

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第十四話「新たな同士」

    「分かりやすいように、君が話してくれたことと照らし合わせて話すとしようか」 これから話すことの全容を知っているのは、エルキュール自身を除けばもはやグレンくらいしかいないだろう。あまり自分のことは周囲に語らないように心掛けてきたので、いざ核心に迫る部分を自ら曝け出すとなると緊張が抑えられなかった。「まず、そうだな。君が言っていたという黒づくめの男だが……あれは恐らく俺のことだ」「ん? え……? えぇぇええー!!?」 ジェナの叫びが木々を突き抜けこだまする。確かに今のは突拍子もない発言だった。訂正し、順序だてて補足する。「その、俺は元々家族とヌールの方に住んでいたんだ。そこで魔獣を狩り、そこから採れた素材を家計の足しにしていた。君が聞いたのは恐らくそのことだろう」「あー、そっか。確かにそうかもしれないけど……って、え? ヌールに住んでいたってことは――」 過去形の表現。もしくはそうでなくてもエルキュールが言ったことがどういう意味を持つか、ジェナには容易に知れたかもしれない。「……あの事件の日。魔獣の大量発生の知らせを受け、念のために俺はある組織について調べてみることにしたんだ」「アマルティア、だね」「そう。結果としてヌール近辺の平原で彼らの痕跡を見つけたが、それは意味を為さなかった。陽動にまんまと嵌り、何とか追いついたころには、彼らが魔獣を操って街を攻撃し始めた後だった」 感情の色を乗せず、淡々と語る。本題でもないところなのでさっさと流したいという思惑からだったのだが、聞いているジェナの表情は悲痛に溢れていた。 とはいえ既に飲み込んだこと。要らぬ感傷を与えないように、言葉を矢継ぎ早に繰り出す。「動機は不明だが、アマルティアは人間を汚染する他にも、俺という存在を仲間に引き入れたかったようだった。そんな勝手な都合のために、不幸にも無関係だったヌールの街が巻き込まれた」「……まるであなたにも非があるみたいな言い方だね」 それは実際そうだろうと、言いかけた口を噤む。ジェナは責めているのではなく、暗にそれを否定しているからだろうというのが理解できたからだ。自身がどう捉えるかは勝手だが、その健気な思いは無下にはしたくなかった。「それはどうだろうな。けど俺は、俺の大切なものを傷つけたアマルティアを許せなかったし、無力な自分にも嫌気がさした。だから一人

  • 黒き魔人のサルバシオン   一章 第二話「ある少女の紀行 後編」

    「すみません! 特盛パフェ一つ!」 アルトニーにある宿の一角、宿泊客が食事に舌鼓を打ちながら談笑している食堂にて、カウンターに控えていた男の一人に向かって威勢よく注文を伝えるジェナの声が響いた。 快活な笑みを浮かべるジェナとは対照的に、カウンターの男はそんな彼女の不釣り合いともいえるほどの元気の良さに辟易したのか、苦笑しながらそれに応じる。「嬢ちゃん、確かさっきもここに来て注文してなかったか? 特盛パフェもそうだが、カヴォード産牛肉のステーキ定食やガレア風サラダ、他にも――」「あーあー! それ以上はもういいですから! きょ、今日は特別なんです! たくさん食べて気合いを入れようかなと…

  • 黒き魔人のサルバシオン   幕間「王都に潜むモノ」

     オルレーヌを守護する王国騎士団、その騎士たちを統率するロベール・オスマンはその立場の関係上、またはその実直さ故に非常に悩みの多い人物である。 例えば、魔物の勢力が強まっているため騎士団に所属する騎士の一人一人の練度を今一度見つめ直さねばならないことについて。 例えば、いつまでも身を固める素振りを見せない愛娘のことや、先日息子夫婦の間に生まれた孫への贈り物について。 悩みの種類やその重要度は様々であるが、目下のところロベールの頭を悩ませているのはそれとは別の事であった。「ふう――」 ロベールのために設えられた

  • 黒き魔人のサルバシオン   序章 第十話「大蛇魔獣シュガール」

     ローブに身を包んだ男を逃してしまった苛立ちをぶつけるように、エルキュールは正面に構える大蛇魔獣――シュガールを睨みつける。 その鋭い視線に触発されたのか、緋色と黒色の鱗と紫の魔素質に彩られた体を大きく伸ばし、シュガールは大きく口を開けて威嚇した。 伸びた体はこの広い部屋の半分を占領し、開かれた口腔は人間を容易く丸呑みできるくらいに大きく見える。 正直言って、今まで戦ってきた魔獣が赤子に見えるほどの威圧感だった。 男の扱いからしても、そこらの魔獣と比べてもかなりの力を持っているのは明白である。 しかし、数の不利からかシュガールは慎重に二人の出方を窺い、攻めてくる様子は見られない。

  • 黒き魔人のサルバシオン   序章 第九話「予定外の逢着」

     遺跡の祭壇部屋の前にて、グレンの提案に同意しようとしたエルキュールの言葉を奥から発せられた声が遮った。 奥にいるのはあの人影のみ。つまり、あの人物がエルキュールらに向けて言葉を発したことは明白だった。 動きを悟られないよう十分な距離をとっていたつもりだったが、こちらの動きが知られていたらしい。 突然声をかけられたことで声を発しそうになるが、二人は何とか息を殺し相手への警戒を強めた。「ふむ、静観……か。――悪くない選択だ。尾行の腕前はもう少し磨いた方がいいと思うがね」 ローブを纏っているので外見を知ることはできないが、声質は男性のもののようだ。低く力強い声に硬い口調、そのいずれもが

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status